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雑学・知識

金栗四三プロフ!ストックホルムやオリンピックの記録マラソン人生まとめ

金栗四三さんはオリンピックに初めて参加した日本人マラソンランナー日本マラソンの父と言われている人です。

大河ドラマでも出てくると思われる参加したオリンピックの成績ストックホルムのエピソード話やプロフィール生涯を調べてみました。

2019年大河ドラマ「いだてん?東京オリムピック噺?」では中村勘九郎さんが演じられます。

田畑政治役の阿部サダヲさん。こちらはオリンピック日本開催に尽力され方です。

脚本も宮藤官九郎オリジナルで、きっと楽しい大河ドラマになるのではと今から期待ですね!

 

今回は金栗四三さんについて調べてみましたので報告いたします。

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日本マラソンの父 金栗四三プロフィール

金栗四三(かなくりしそう)

選手情報

国籍 日本

種目 マラソン

生年月日 1891年8月20日

生誕地 日本・熊本県玉名郡春富村(現・和水町)

没年月日 1983年11月13日(92歳没)

死没地 熊本県玉名市

自己ベスト 2時間32分45秒

第5回 ストックホルム大会(1912年(明治45年)?1967年(昭和42年))

一時行方不明 (最下位(54年8ヶ月6日5時間32分20秒3))

第7回 アントワープ大会(1920年(大正9年)) – 16位(2時間48分45秒4)

第8回 パリ大会(1924年(大正13年)) – 途中棄権

引用:Wikipedia

金栗四三さんは熊本県玉名群春富村(現 三加和町)明治24年1891年8月20日に生まれました。

8人兄弟の7番目の男の子で、父は信彦、母はシエという名前です。

父信彦さんが43際の時の子で四三と名付けたそうです。

家は造り酒屋でしたが父信彦が病弱、特に胃がいたく弱かったようで父の代の時には兄弟で畑を耕して生計をたてていました。

このころから金栗四三さんは健康第一という人生哲学だったといわれています。

明治30年1897年

芳治尋常小学校では成績がとても良かったんです。

いつもは怖い長男の実次がある日四三が帰宅すると。

今日からここで勉強するようにと勉強部屋を与えてくれました。

この時代で自分の勉強部屋があることは稀なことで、兄弟や家族から四三への期待度がうかがえるエピソードです。

明治高等小学校

(高等小学校の就学学齢は10歳から14歳。修了時点)

このころ四三は毎日6キロ走って学校に通ってました。

半年ほどで上級生を抜き去るようになったそうです。

この時すでに四三は呼吸法を体験で体得していたので一番だったと言われています。

今の2回吸って1回吐く、という、現在では走る時の常識な呼吸法ですね。

金栗四三さんの走りへの探求はこのころからもう始まっていたのかもしれないですね。

明治38年1905

旧制玉名中学に進みます。ここでも四三さんは成績抜群でした。

その後兄のすすめ高等師範学校(現・筑波大学)に合格、進学します。

明治43年1910年 19歳 そして上京を果たしました。

金栗四三マラソンの世界へ

金栗四三さんの人生でキーマンになった出会いは東京高等師範学校での加納治五郎との出会いだったのではないでしょうか。

当時、東京高等師範学校の学校長を加納治五郎さんがされていました。

その時の教育方針は、なにかスポーツに取り組むべし!というもの。

加納治五郎さんと言えば柔道の父で有名ですね。

講道館を設立して柔道普及に尽力。

また日本の教育界にも功績を遺した人物です。

 

「知育、徳育、体育の三育」を教育理念としていました。

 

金栗四三さんは高等師範学校でも毎日4km走り、速さで同級生を驚かせていたようです。

加納治五郎学校長は勉学だけでなくスポーツも推奨していたため、学校で年2回マラソン大会を開催していました。

金栗四三ははじめてのマラソン大会ではアクシデントが重なり25位とう結果に終わりました。

しかしその秋の大会で1位、2位こそ上級生でしたが1年生で見事3位に入入ります。

その足の速さの評判で徒歩部、今でいう徒歩部(陸上部)に誘われ入部します。

学校自体は勉学も、という理念でしたのでそんなに厳しい練習を課していなかったといわれています。

しかし金栗四三さんは自分で厳しい練習をしていました。

ちなみにその時の徒歩部が陸上部で、

ランニングは行飛(ぎょうひ)、12歳以下150ヤード競争を雀雛出巣(すずめのすだち)、15歳以下300ヤード燕子学飛(つばめのとびならい)

また二人三脚を狂蝶珍走(てふのはなおび)と言ったそうです。

学生時代の偉業や評判もきっとすごかったんだと思います。

 

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ストックホルムオリンピック 予選会へ参加

 

日本のストックホルムオリンピック参加へ加納治五郎さんたちが尽力します。

明治44年1911年、金栗四三はストックホルムオリンピックへ向けた予選会へ参加することになります。

このとき加納治五郎は東洋ではじめてIOC委員になっています。

このストックホルムオリンピックへの予選会金栗四三が参加します。

当時ランニングシューズが日本にはありませんでした。

かわりに黒足袋を履いて出場しますが途中破けてくるんですね。

そして途中から素足に近い状態でしたが、なんと当時の世界記録を塗り替えて優勝

雨の降る泥道の厳しいマラソンだったと言われています。

金栗四三、ストックホルムオリンピックへの予選会での記録 2時間32分45秒

当時の世界記録を27分上回る速さでした。

そして日本がこの時20歳の金栗四三に熱狂します。

ストックホルムオリンピックへ!

明治45年1912年3月

金栗四三は加納治五郎に校長室に呼ばれ、ストックホルムオリンピック参加を促されます。

最初は他の選手ともども渋っていたらしいです。

というのもお金の問題などがあり。。

しかし加納治五郎の熱意や「黎明の鐘」になってくれという言葉に金栗四三は決断します。

問題はさきほどのお金。

ストックホルムまでの旅費はなんと自分持ちでした。

その時、金栗家の大黒柱になっていたお兄さんから「金のことなら心配するな、田畑を売ってでも工面する」という手紙がありました。

当時の渡航費(ストックホルムまで)はだいたい1800円ぐらいしたそうです。

しかし有志などからの寄付もあり、お兄さんの負担は結局は300円程で済んだという話です。

それでも当時での自腹は痛かったと思いますね。

1か月程の旅路を得てシベリア横断からストックホルムへ入ります。

明治45年1912年7月6日第5回ストックホルムオリンピックが開催。

日本選手団は短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三のなんとたった2名だけでした。

三島弥彦は100m走予選で日本新記録をたたき出しますが予選すら通過せず、世界のレベルを思い知らされます。

体格体力の差をまざまざと見た金栗四三はこのままでは勝てないと思いました。

明治45年1912年7月14日スタート。

外国人と走った経験の少ないは金栗はいきなりペースを乱します。

しかし速攻だが5位へ落ちたあと、しばらく走ってごぼう抜き。

折り返し地点では50人抜きをします。

しかし、やはり経験の無さが響きます。

ドリンクを取らずに走りるづけた金栗は暑さといものがわからなかったのでしょうか。

走路から外れた森の中で昏睡状態になってしまいました。

気が付くとベングドペトレーさんという農家のベットに寝ていました。

気が付いたのは翌日だったそうです。

医者を呼んで見てもらったらをひどい日射病だったということでした。

この日のレースの過酷さですが、ポルトガルのラザル選手が暑さで死亡していると資料に残っているそうです。

日本を背負って、家族を置いて、お金を工面してもらって。

このストックホルムオリンピックの結末、さぞかし悔しかったことが想像できますね。

大敗後朝を迎う。

重責を全うすること

あたわざりしは、

死してなお足らざれども、

死は易く、生は難し。

「金栗四三の日記」に書かれていました。

日本関係者は金栗四三を責めて、大会本部に棄権したという報告すらしませんでした。

そのため忽然と消えたことになっていました。

金栗をモチーフにした小説「消えた日本人」なんかも出たんだとか。

消えたことになっていて、憶測が飛び交い、ニュースや小説などになっていったんですね。

スウェーデンではしばらく語り草となっていました。

途中で止めた理由として、ソレントゥナのとある家庭でお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示されていたそうです。

ひどい解釈ですね。

棄権になってしまった金栗四三ですがその時のストックホルムでの環境はひどかったようです。

不慣れな外国、同行したコーチ(?)の体調不良で一人でしばしの生活、慣れない食事。お米が無い。

そして暑さなど。

気を失うほどの過酷な環境だったことがうかがえますね。

競技当日は何か不備があったのか迎えが来ず、競技場まで走っていったとの話もありました。

しかし、後述しますこのストックホルムオリンピックの話は有名で感動的な完結まではもう少し時が必要となります。

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ベルリンオリンピック開催中止に!

 

大正元年1912年夏

翌年帰国した金栗は千葉県館山で鍛えに鍛えます。

暑さに負けない対策の練習をします。

暑さ対策、固い道路での走る対策などなど。

加納治五郎ストックホルムオリンピックで棄権した金栗を励ましました。
「みまう、人間は結果ではなく目標をもつことがすばらしい」

 

そして金栗四三はベルリンオリンピックをを目指します。

そして国内のマラソン大会でまたしても世界記録を塗り替えます。

2時間19分

しかし第一次世界大戦が勃発します。

なんと目指していたベルリンオリンピックが開催中止になってしまいました。

メダルの期待!また金栗四三は年齢的に一番脂ののっていた時期でした。

このころ金栗は他に、富士山での高地トレー二ングをやっていました。

今現在でもトレーニングとして取り入れられている高地トレーニングですね。

金栗四三はそれを自分で考えてやっていたんですね。

金栗四三と箱根駅伝

 

大正8年1019年、金栗四三は下関から東京間の1200kmを走破します。

その後の大正9年1920年、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走が開催され、金栗はこの大会開催のために尽力しました。

のちの箱根駅伝ですね。

金栗四三の功績を記念して富士登山駅伝及び東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に「金栗四三杯」が創設されている

 

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アントワープオリンピック参加!

 

金栗四三は大正9年1920年に第七回アントワープオリンピックに参加しました。

日本選手団15名でした。増えましたね。

マラソンに参加した金栗でしたが結果は45km付近で脚を痛め16位に敗れました。

今度は厳しい寒さのためだったと言われています。

また選手としてのピークはやはりベルリンオリンピックの時だったのでしょう。

なんとも不運がつきまといました。

その後大正9年1920年に帰国後、日本が勝っていくためには母となる女性の理解が必要だと考えます。

東京女子師範学校(現 東京学芸大学)の先生になり環境整備に尽力していきます。

しかし金栗四三はオリンピックへの夢はまだまだ捨ててませんでした。

パリオリンピック参加!

 

大正13年1923年第八回パリオリンピックに参加します!金栗四三33歳のときです。

しかしピークは過ぎていました。前半から飛ばましたが32キロ地点で棄権してしまいます。

金栗四三の「オリンピックが終わった」と思った瞬間だったことでしょう。

 

その後熊本県玉名市に帰郷します。

妻スヤと子供が3人いました。

金栗四三は大正3年に結婚されています。

妻のスヤさんは16年も長く一人で家を守ってたんですね。

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金栗四三その後

 

金栗四三が56歳時。

昭和28年に今度は日本選手団監督として第57回ボストンマラソンに挑戦します。

山田敬蔵選手が世界規模のマラソンで優勝しました。

 

金栗四三の影響を受けた選手は多く、東京オリンピック強化合宿オリンピック銅メダリスト円谷幸吉もその一人です。

金栗の自伝を読んで影響を受けたとコメントしています。

メキシコオリンピック銀メダリスト君原健二さんもインタビューで応えていました。

金栗四三へスウェーデンのオリンピック委員会からの招待状

ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されます。

昭和42年1967年のことです。

スウェーデンオリンピック委員会から招待状。

金栗四三様

第五回ストックホルムオリンピック日本代表金栗四三選手。

あなたはストックホルム競技場をスタート後、いっさいの報告がなされておらず未だ行方がわからないままになっています。

ぜひゴールすることを要請いたします。

なんとも粋な計らいといいますか。

そして金栗四三は式典に参加。

ゴールテープを切ります。

金栗四三のゴールによって第五回ストックホルムオリンピックの全ての日程が終了した

と報道されました。

ストックホルムオリンピック 記録 54年8か月6日5時間32分20秒3

これは世界で最も遅いマラソンの記録なのです!

本当に長い長い旅路、人生でしたね。

 

金栗四三はグリコのマークの人?

 

ところで金栗四三さんはグリコマークの人なんでしょうか?

調べましたが、あのマークは特定の人ではないとのことです。

金栗四三で検索すると候補に「グリコ」が出てくるのでてっきりそうかと思ってたのでけど。

 

複数いるモデルの一人であるというのは江崎グリコの方も仰ってましたね。

残念(?)ながら今回のドラマの金栗四三さんが特定モデルではございませんでした、という報告です。

まとめ

 

金栗四三さん昭和58年11月13日92歳没

生涯走った距離は25万キロだったといわれています。

アクシデント続きだったオリンピック、そして人生。

日本人初のオリンピックマラソン参加という快挙。

そして晩年にストックホルムへの式典参加による54年8か月6日32分20秒3という記録。

大河ドラマが宮藤勘九郎さんの脚本ですから絶対面白くドラマチックな作品になるに間違いありませんね。

期待したいです!

 

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